大阪体育大学の硬式野球部男子・中野和彦監督(64)が阪神大学野球秋季リーグを最後に30年間務めた監督を引退します。10月8日、ほっともっとフィールド神戸で行われた本学最終戦(対関西国際大学、7-8)を最後に指揮を終えました。中野監督は通算26回リーグ優勝し、元巨人・米大リーグレッドソックスの上原浩治氏ら多数のプロ野球選手を育てました。退任後は野球部ゼネラルマネジャー(GM)を務め、後任には松平一彦コーチ(46)が就任します。
<プレスリリース>
中野監督は大阪府出身。浪商(現大阪体育大学浪商)高校から本学に進み、主に内野手。4年生の時、学生監督を務めました。卒業後、会社勤務を経て浪商学園職員となり、36歳だった1994年に本学硬式野球部監督に就任しました。
春秋通算26回のリーグ優勝を果たし、2000年春から03年春までリーグ記録の7季連続優勝を達成。06年の全日本大学野球選手権大会で阪神大学野球リーグ勢として初の優勝を果たしました。
また、上原選手や元巨人・米大リーグインディアンスの村田透氏、現中日・松葉貴大投手、現楽天・酒居知史投手ら多数のプロ野球選手を育てました。
後任の松平新監督は兵庫県出身。神港学園高校で1995年の阪神・淡路大震災直後のセンバツに出場し、本学では3年からマネジャーを務め、上原氏の1年後輩にあたります。2000年の卒業後、履正社高校に赴任。翌年から野球部長を務めて甲子園は夏3回、春9回出場し、2019年夏全国優勝。2014年、17年春に準優勝。2021年、同校を退職して本学職員となり、硬式野球部コーチに就任しました。
最終戦となった10月8日は、全日本優勝メンバーの村田氏ら多数の卒業生がスタンドに詰めかけ、声援を送っていました。試合後、中野監督は相手チームの選手も輪に入って見守る中で胴上げされ、スタンドの卒業生と一緒にグラウンドで記念撮影をしました。
中野監督に聞きました。
――引退の日を迎えたことへの思いは。
寂しさは感じています。続けたい気持ちもあるが、若い人に受け継いでほしいという思いです。また、30年間、楽しく野球をやらせてもらいました。胴上げは、相手チームの選手にも祝福してもらい、感無量です。
――退任を決めた理由は。
(65歳の)定年を迎えるため、数年前から後に託す人材について考え、松平コーチを招きました。松平コーチが後を継げるということを確信したので、後を託します。
――中野監督が30年間、継続してきた指導方針は。
高校時代の練習は上から指示された内容ばかりだったので、大学生の時は、自分たちが考えた練習を持ち込み、自分たちが成長できるような練習を自主性を持ってやりたいという気持ちがありました。自分が監督になり、学生らに「言われたことではなく、自分たちで考えた野球をやってほしい」「自分たちにとって足りない部分を考えながら自分たちでメニューを補い、自主性を持ってやってほしい」と話していました。
――30年間で一番の思い出は。
やはり、全日本での優勝です。準決勝前夜のミーティングでは、相手の近畿大学に左腕で150㌔の球威がある大隣投手(憲司、元ソフトバンク)がいて、選手が「うちでは打てない。もう終わりですね」と言うので、「近大には公式戦で負けていない。君ら勝てるよ」と暗示をかけ、作戦はなかったのですが、たまたま勝てました。決勝前夜のミーティングは、選手が「相手の青学(青山学院大学)はプロに進むスターばかり。準優勝でいいですね」と言うので、「いやいや優勝して帰ろうよ。目標を持とう」と言ってみんながひとつになった。それまで打撃が不振だった主将がぼくの部屋に来て「打順を変えてほしい」とも言ってきたが、選手とはマネジャーのサポートもあって一体感が取れていたので、まとまって優勝することができました。一つ勝つごとに成長が見える面白いチームでした。
――松平新監督に託したいことは。
ぼくが一番嫌なのは、監督が決めつけて強制的に練習させること。学生の自主性を大切にし、学生コーチらとミーティングをしながら一番いい策を取ってほしい。そして、社会に通用するような学生を育ててほしい。ぼくの教え子であり、自分の思っていることを受け継いでくれると思うが、松平新監督はそういうことができる監督であり、すごく信頼しています。
――今後、GMとしてどのような貢献を。
一緒に現場に立つことよりも、チームに対してどういうサポートができるか。選手勧誘を含めて裏方の仕事をメインに頑張っていきます。
――学生へのメッセージを。
松平新監督も若いので、学生は「兄貴」としていろんなことを相談しながら、いいチームを作り上げてほしい。
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